お菓子けものみち

~第三回「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」


およそ2ヶ月ぶりの登場となります。「覆面ライターT」と申します。

和菓子について適当に語ってみる、「お菓子けものみち」。
第三回の今回は、やや趣を変え、「おやつパン」の王道、「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」の「日本発、中に何か入っている甘いパン」3種について語りたいと思います。
なお、今回は薀蓄多め、写真少な目となっておりますのでご注意ください。

日本におけるパンの歴史について

今回紹介する3種のパンは、すべて日本生まれなのですが、まずは「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」の前に、日本で焼かれたパンの歴史についてざっとおさらいしておきます。

そもそも「日本にパンがやってきた」のは16世紀。
宣教師がやってくるとともにパンも持ち込まれたのですが、一部の好事家以外に広まることはありませんでした。

ご存知のとおり、そこから日本は鎖国政策に入り、しばらくは「パン」と無縁だったのですが、それでも国内で「パンを焼く」ことは時々あり、また興味の対象ではあったようです。
楢林雑話」「大和本草」「和漢三才図会」また、徳川御三家のひとつ、水戸家の「食菜録」などに、パンについての記載や、その製法などが語られています。
これらを参照する限り、「パン種」の発酵にはすべて「甘酒」が使われているようです。
当時の日本で、手に入りやすい酵母としては、ちょうどよかったのでしょう。

時は流れ、江戸末期に伊豆韮山の江川太郎左衛門によって、大量のパンが焼かれることになります。
おそらく、日本人のために、工業的にパンが焼かれるのはこれが初めてのことだったのではないかと思いますが、このときの理由は「軍事的なもの」。
日本人の主食は言わずと知れた「ごはん」ですが、日持ちがせず、炊くときに火が必要なため、その煙で居場所がわかってしまうから、日持ちがし、簡単に携行できる食べ物を欲していたということのようです。
もっとも、このときのパンは、「パン」といいながら、現在のようなふかふかなものではなく、「固いビスケット」だったようですが。

さらにそれから10年ほど経ち、黒船来航を経て、横浜に外国人居留地ができるわけですが、それに伴い「外国人が、彼等自身が食べるために」パンを製造、販売し始めます。
(その中のひとつ、「ヨコハマベーカリー」は、当時イギリス人の経営だったのですが、後に日本人に暖簾が譲られ、現在も横浜で「ウチキパン」として営業されています。)

続いて明治維新とともに、日本の一般の食卓にもパンが入ってくるようになり、日本人が、自らのためのパンを作り始め、その比較的初期に「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」3種ともが発売されるのですが、それらを含め、大まかに年表をまとめると次のようになっています。

 


明治期までのパンの年表

 

16世紀 宣教師と共に、パンも伝来
1842年 江川太郎左衛門が、軍の携行食糧としてパンを作る
1862年 ヨコハマベーカリー(現ウチキパン)で山形食パンが作られる
この時点ではイギリス人、ロバートクラークの経営
1866年 横浜でフランスパンが作られる(富田屋、現在はなし)
1868年 明治維新
1869年 「文英堂(後の木村屋)」開業
1874年 あんぱん発売(木村屋)
1875年 あんぱんが明治天皇に献上され、御用達となる
1877年 陸軍でパン食が採用される
1889年 ロバートクラーク引退、日本人に「ヨコハマベーカリー」暖簾が譲られる
1900年 ジャムパン発売(木村屋)
1901年 「中村屋」開業
1904年 クリームパン発売(中村屋)

今回のお題「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」に関しては、そのすべてが1874(明治7)年~1904(明治37)年までの30年間、明治維新から数えてもで37年間で発売されています。
当時の西洋文化への憧れと、それに対して自ら取り込もうとする情熱が感じられます。

2.あんぱん

そんな歴史の中、まずは「日本の菓子パン」で最初に発売されたあんぱんから。

明治2年に、木村安兵衛が「文英堂」なるパン屋さんを開業します。
翌年屋号を「木村屋」と改め、これが現在も続く「木村屋」となっていくわけですが、現在では「木村屋總本店」直営の本店が「銀座木村家」ということでよいようです。

お店の場所は三越のまん前。ビル一棟がまるまる木村家となっています。

余談ですが、この「木村家」、7階と8階が工場になっており、下の階のお店ではまさに焼きたてのパンを毎日購入することができます。
銀座のど真ん中の工場、ということで、おそらく日本一(あるいは世界一?)地価の高い工場ではないかと思います。

初期の国内でのパン屋に関しては発酵技術が未熟だったためか、味もいまいち、したがって売り上げもいまいちだったようです。
そんななか、木村屋二代目となる栄三郎が日本に昔からあった「酒饅頭」にヒントを得、「酒種」を酵母に使い、餡子を中に入れ込むことを思いついたとのこと。(和菓子屋さんに勤めていた、弟の儀四郎からの着想、ということもあるようですが。)

ただ、着想自体はすばらしかったのですが、実は糖分が多いと発酵が止まってしまうため、初期は失敗も多く、「うまくふくらむ」配合を探すのは容易ではなかったようです。

おそらくは試行錯誤の末、開店から5年後、明治7年に酒種を使用したあんぱんは完成することになり、その翌年に明治天皇に献上されることになり、献上にあたり、「桜の花の塩漬け」が追加され、本日よく見かける「へそ付きのあんぱん」誕生、というのが大まかな流れとなります。

現在でもそのあんぱんを当たり前のように購入することができます。
左から、へそ付きの桜あんぱん(こしあん)けしの実のあんぱん(こしあん)小倉あんぱん(つぶあん)の順。
また、断面図はこちら。並び順は上と同様です。

このあんぱん、切ってみるとわかるのですが、中の「すきま」はほとんどありません。
考えてみると、「酒饅頭」も同じような感じですので、やはり酒饅頭より着想を得ているのだろうなあ、ということがわかります。
酒種を使用しているため、きめが細かく、また、生地にもうっすらとした甘さを感じることができ、餡抜きでもとてもおいしくいただくことのできる生地であることがわかります。

ただ、明治天皇に献上され、好評を頂いたとはいえ、あんぱんそのものがメジャーになるまでにはもう少しかかり、人気が爆発的になったのは、明治初期の「江戸患い(脚気)」の流行および、1884(明治18)年の「広目屋」がきっかけ、ということのようです。

1878(明治10)年ごろの日本では、雑穀主体の食事から白米主体の食事への切り替わり時期にあたり、それに伴い深刻なビタミン不足から発する「江戸患い(脚気)」が大流行していました。
これに対する「薬」としてパンが有効、とのことで、パン人気が爆発的になっていき、その過程でまずはあんぱん自体が取り上げられることも多くなっていったようです。
当時発行された「脚気相撲番付」にも木村屋のあんぱんは記載されており、これにより、「パン全体の人気向上」が図られた、というのが一段階目。

続いて1884(明治18)年。二段階目。
銀座に「広告」を専門にする、「広目屋」が開店します。
この「広目屋」、要は現在のチンドン屋に近いもので、「シルクハットに赤い背広、腹に太鼓を抱えた男性」と「鹿鳴館の舞踏会風のドレスを着て、三味線を持った女性」が、街中を三味線と太鼓の伴奏をし、「パン、パン、木村屋のパン」といいながら練り歩く、というもので、「広告」の概念自体なかった時代にこの奇妙ないでたちでパンの宣伝が行なわれたことに当時の人々はびっくりすると同時に興味も引かれたのでしょう。
「あんぱん」は大人気となり、その宣伝の模様が芝居の演目にもなり、その千秋楽の様子(もちろんチンドン屋さんの)は錦絵にもなったようです。
錦絵、というのは今日で言う「写真集」のようなものにあたると思いますので、個人商店の、しかも宣伝の様子が「芝居にもなり」「その模様が錦絵にもなる」というのはものすごい人気であるのは想像に難くありません。

とにもかくにも1884(明治18年)以後、木村屋のあんぱんは飛ぶように売れるようになり、その後のジャムパンへの足がかりとなっていくことになります。

3.ジャムパン

その後1900(明治33)年に、やはり木村屋より「ジャムパン」が発売されます。

この「ジャムパン」、実は先に書いた、あんぱん試作過程での試行錯誤が大きな影響を与えているのですが、そのあたりの話から少し。

実は先の「試行錯誤」の過程において、木村屋は売れ残ったパンを海軍の寮や陸軍の操練所などに無料で送っていました。
その甲斐あってか、1872(明治5)年、海軍がパン食を採用した際に、出入りしてパンを卸すことになります。
その後日露戦争のときなど、陸軍にも「杏ジャムを用いたビスケット」を供給するようになり、あんぱんが評判を呼ぶとともに、あんぱんの発展形として「ジャムを間に入れたパン」を、今度は3代目の儀四郎が発案する、という流れになります。

実際、ジャムは餡子に比べ、水分を多く含んでいるため、置いておくとすぐに湿ってしまうのですが、先の「広目屋」後、あんぱんは飛ぶように売れており、同じように売れるなら「湿っていくより早く売れ、食べられるだろう」との予想のもと、あんぱんと区別を付けるため、こちらは木の葉形にして売ってみたらこちらは予想通りに大当たりした、という流れのようです。

現在売られているジャムパンがこちら。やはり現在も細長い形をしております。
あんぱんが1銭、ジャムパンが2銭とのことで、倍の価格だったのですが、どちらも飛ぶように売れたとのことで、当時の木村屋人気が伺えます。


断面はこちら。
先に書いたとおり、もともと「杏ジャムを用いたビスケット」からの発想ですので、木村屋のジャムパンは、今日一般的な苺ジャムではなく、杏ジャムを当初使用していました(現在直営店では杏ジャム使用のものをそのまま購入することが出来ます)。

ところで。
木村屋に限らず、和菓子屋さんのワッフルや、老舗のケーキ屋さんで使われているジャムは杏ジャムが非常に多いような気がします。
ヨーロッパでは苺ジャムが一般的ですし、なぜ「杏」だったんでしょうか?

日本で記録上初めてジャムを作ったのは1877(明治10)年。東京の新宿にあった勧農局で、苺ジャムが作られた、との記録があります。
その4年後、1881年(明治14年)に、長野で缶詰の苺ジャムが作られ、これを販売開始し、以来、長野ではジャムづくりが盛んになったようです。

ところが、当時まだ苺の栽培が日本では一般的ではなく、おそらく入手性も悪かったのでしょう、長野では江戸時代より「森村の杏(森村は地名)」として杏が有名だったようで、それらを使い、おそらくはジャム作りを開始したのではないかと思います。「明治27年頃にはアンズシロップ缶詰・アンズジャムの製造を軌道に乗せた」との記録はあるようです。

結局長野のジャム作りが盛んとなっていったことと、長野では当時杏が比較的手に入りやすかったことなどから、自然とそういった流れになったのだろうなあ、と考えておりますが、もしそのあたり詳しい方がいらっしゃったら、ぜひお教えいただければと思います。

4.クリームパン

クリームパンの元祖のお店は、新宿の中村屋です。
お店は新宿大通り沿い。紀伊国屋書店の斜向かいに位置します。

中村屋の創業は1901(明治34)年のこと。
ジャムパン発売から一年後に創業されたことになります。
中村屋初代は相馬愛蔵、黒光夫妻だったのですが、旦那さんの愛蔵氏は早稲田の教会に出入りしており、パンになじみがあり、また、奥さんの黒光さんはもともと出身のフェリス女学院時代、寄宿舎ではヨコハマベーカリーのパンを食べていたということで、夫妻ともども当時としてはパンになじみがあった、といってよさそうです。

そんな夫妻がパンを扱うにあたり、どのように考えたのかは、愛蔵氏著「一商人として」に詳しいのですが、パンが一過性の流行で終わるのか、それとも日本の家庭に定着するのかを「商売人」として見極めるため、自ら試してみることにしたとのことで、具体的には「早速その日から三食のうちの二度までを」パンにし、「副食物には砂糖、胡麻汁、ジャム等を用い」たところ、手間もかからず、非常に便利に感じられ、「こうして試してみること三ヶ月、パンは将来大いに用いられるなという見込みがついた」ことから中村屋でパンを扱うこととし、当初は「チャリ舎」のパンを、追って「ヨコハマベーカリー(現ウチキパン)」のパンを仕入れ販売することとなったようです。

ただおそらく、自らパンも作って売りたかったのでしょう、開店から3年後の1904(明治37)年、クリームパンを発売しています。
作り始めるきっかけは「中村屋」のWEBサイトに詳しいのですが、そこより抜粋します。

「創業者夫妻はある日、初めてシュークリームを食べてその美味しさに驚きます。
そしてこのクリームをアンパンの餡のかわりに用いたら、一種新鮮な風味が加わって、アンパンよりも少し高級なものになると考えたのです。また、子供にとっては、小豆と砂糖だけの餡よりも、乳製品を使ったクリームのほうが栄養価の面でよいのではないかという気遣いもありました。
早速つくって店に出してみると大好評。明治37年のことでした。また同じく、そのクリームをワッフルのジャムのかわりに用いて発売しました。」
とのことで、既に「あんぱん、ジャムパン」の発売後とはいえ、改良するにあたって、目新しさだけでなく、「栄養価」なども考えているのが慧眼といえるでしょう。
実際に、発売後にこちらも大評判となったようです。

そんな元祖クリームパンの写真がこちら。

ところで、今日「クリームパン」といえば、写真のように、片側に数箇所の切れ込みが入った「グローブ型」のものを想像すると思います。
実際のところ、この「切れ込み」、発売当初はなく、半円型だったとのこと。
やはり中村屋のWEBサイトに詳しく載っていますので、そちらより抜粋します。

「実はクリームパン、売り出した当時は"柏餅型"だったのです。中村屋に現存する営業案内の写真では、切れ目のない半円の形をしたクリームパンがはっきりとわかります。
ではなぜ切れ目が入り、なぜグローブ型になったのでしょうか?

アンパンやジャムパン、クリームパンのような中身に”あん”を詰めたパンは、細心の注意を払っても中に空洞が生じてしまうことがあります。それが原因で品質が落ちてしまう事はありませんが、お客様に損したような感じを抱かせてしまうのも事実です。そこで空洞が出来ないように空気抜きとして切れ目をいれた結果見た目がグローブ型になった、という説などがあります 」
実際にどうなのか、断面を見てみましょう。

今回はど真ん中、「中指」の中央を切ってみましたが、看板に偽りなし。奥までぎっしり詰まっています。
よく見ると、このクリーム、バニラビーンズなどもふんだんに使われており、「だてに元祖を名乗っていないぜ!」といった気概を感じさせる品となっております。


さて。
いつも食べており、おそらくは「ちょっといいお菓子」に分類されることはない「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」ですが、その背景を知ることでより楽しめるのではないでしょうか?
今後食べる際には、その背景まで思い出しつつ味わっていただけることを願いつつ、今回の「お菓子けものみち」終了といたします。


今回のお店

銀座木村家(銀座):
住所:東京都中央区銀座4-5-7
電話: 03-3561-0091
定休日:なし
営業時間:10:00~21:00

新宿中村屋(新宿):
住所:東京都新宿区新宿3-26-13
電話: 03-3352-6161
定休日:なし
営業時間:10:00~22:00

●バックナンバー
第七回「甘納豆は日本橋にあり」
第六回「饅頭の成り立ちと、日本への伝播」
第五回「みつ豆とあんみつの元祖に迫る」
第四回「コンビニのロールケーキ」
第三回「あんぱん、ジャムパン、クリームパン」
第二回「梅花亭でどらやきの歴史に触れてみる」
第一回「3種のうさぎやについて語る」

プロフィール

覆面ライターT

いろいろあってプロフィールは秘密の某会社社員。
20ン年前に「女性にモテたかったので」お菓子をいろいろ食べ始めるが、
その目的は果たせず。
代わりになぜか餡子の美味しさに目覚めてしまい、そのままお菓子(食べるほう)の道を邁進中。
文章おちゃらけてますが、結構いろいろ食べていますので今後もお楽しみに
覆面ライターT


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