お菓子けものみち

~第二回「梅花亭でどらやきの歴史に触れてみる」


ひさしぶりの登場となります。「覆面ライターT」と申します。

和菓子についてそれなりに語ってみる、「お菓子けものみち」。
今回は前回のネタ「どら焼き」について、改めてその歴史と、その始まりにかかわったお店のお菓子を紹介したいと思います。

1.まずは「どらやきの歴史」について

まずは簡単に「どら焼きの歴史」についておおまかに書いてみることにします。

 

  1. 「どら焼き」というか、「小麦の皮に包まれたお菓子」の元祖をさかのぼると、安土桃山時代、千利休の「ふのやき」にたどり着くようです。
    一般的な「ふのやき」の作り方は、溶いた小麦粉を平鍋で薄く焼き、味噌を塗って丸める、というものなのですが、味噌以外にも「くるみ」「けしの実」「砂糖」などを入れ込んだものも あったようです(安土桃山時代にどういったものがあったかについては寡聞にてわかりませんが)。

  2. その後、江戸時代初期に、東京、麹町で「助惣焼き」のお店が出来ました。
    この「助惣焼き」、現在のお好み焼き、どら焼き、きんつばなどの元となったお菓子といわれており、岡本綺堂の半七捕物帳などにも登場しているようですね(吉良の脇指 冒頭)。
    つくりとしては小麦粉を薄く延ばして、餡子を包んだ、おそらくは和風のクレープライクなもので、個人的には、今もお好み焼きやさんに行くと時々置いてある「餡子巻き」のような物ではないかと考えています。
    いずれにせよ、「薄く焼いた小麦粉の中に、餡子が挟まっている」お菓子の元祖がこちらの「助惣焼き」といえそうです。

  3. 江戸時代末期、笹屋伊織より「どら焼き」と名づけられたお菓子が登場します。
    ただしこの「どら焼き」、「鉄板の代わりに銅鑼を用いて生地を焼いた」ことに由来するもので、現在一般的な「2枚の生地の間に餡子が挟まっている」ものではなく、棹物のお菓子となっており、見た目に関してはバウムクーヘンの真中に餡子が詰まっているような感じを想像していただけると比較的わかりやすいかと思います。
    ちなみにこのお菓子、現在も購入可能で、実際に食べてみると皮は非常にモチモチしており、餡子の甘みは比較的抑えられた感じで、食感が非常に楽しめます。

  4. 時代は移り、明治のはじめ、大伝馬町の「梅花亭」三代目店主が、「どら焼き」を作りました。
    この「どら焼き」、先のものと異なって、「銅鑼の形を模した、丸くて薄いお菓子」となっており、ここで初めて、現在の「どら焼き」に繋がる、円盤状の「どら焼き」が登場することになります。

  5. さらに明治中ごろ、柳橋の「梅花亭」初代店主が「三笠山」を作りました。
    主として関西で「どら焼き」のことを三笠山と呼びますが、このお菓子は、その見た目を、九代目市川団十郎が「奈良の三笠山の山焼きの姿」と評したことより、「三笠山」と名づけられたとのこと。
    また、この「三笠山」、先の「どら焼き」とは異なるものの、やはり上下の生地を貼りあわせた円盤状のお菓子となっており、現在の「三笠山(どら焼き)」にも通じるものではないかと考えます。

  6. 明治42年創業の奈良のお店「湖月」で「三笠焼き」が売られていたとのお話があります。
    先の九代目市川団十郎の没年が明治36年ですので、「三笠山の元祖」は梅花亭と捉えてよいと 思いますが、関西での「三笠」の歴史も意外と古そうですね。

  7. 大正時代、「うさぎや」創業
    「うさぎや」のどら焼きについては、前回の記事をご覧頂くとして、ここで初めて現在もなじみのある「どら焼き」が登場することになります。


ざっと以上が「どら焼き」に関しての歴史、ということになるのですが、今回はIV.V.に注目したいと思います。
IV.で、円盤型の「どら焼き」が明治のはじめに登場し、
V.で、関西で「どら焼き」の一般的な名称である「三笠山」と名づけられたお菓子が明治の半ばに登場しています。
さらに、場所は違えど共に「梅花亭」の名の付くお店。

実は双方の「梅花亭」について、2010年時点でも共に続いており、現在でも普通にそれらの「どら焼き」や「三笠山」を買い求めることが出来ます。
今回の記事はそれらを含め、それぞれのお店のお菓子について書きたいと思います。

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